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ヒストリー

1950年

4人兄弟の3番目の次男坊として出生

紡績会社に勤める35歳の父と、32歳の母の間に、4人兄弟の3番目の次男坊として富山県の高岡市で生まれました。立山連峰が美しい…私の名前の由来になっている所です。
生まれて間もなく、名古屋市南区の社宅へ移り、社会に出るまでそこで育ちました。そこは辺り一帯が鉄条網で囲われた中に100棟ほどの平屋が建ち、5つある門から出入りするという環境でした。現在、アピタが建っている所です。

社宅の中で4人兄弟は自分の家だけだったので「兄弟が多いから我慢しなさい」と母によく言い聞かされました。学歴社会になろうとしている時代、中卒で就職する人が全体の1割いるかどうかという時代に、「兄弟全員が中学を出てすぐ就職する」ということを家族全員が了解していました。3帖と6帖と8帖の3間しかない家で住み込みも余儀なくされましたが、誰一人不満を口にしませんでした。それには、父に仕えた母の存在が大きかったと感じています。母が父のことを悪く言うことはなかったし、夫婦喧嘩を見たことはありませんでした。

1950年

伊勢湾台風の被害の復興を目の当たりにして育つ

机の前にいることが苦痛で、その上、活字が苦手で…。机の前の仕事は合っていないと思って、このころ既に大工になることは決めていました。
子供の頃の一番大きな出来事はやはり「伊勢湾台風」でしょう。私が小学3年生の時です。潮の満ち引きで道が川になり、我が家の小屋裏に4世帯が避難、落ち着くまでそこで生活をしました。父が頼もしかったことは今でも覚えています。また、台風の被害に遭いながらも、かろうじてテレビが助かり、プロレス中継の時には大勢の人が庭に集まりました。女工さんにかわいがってもらったことや、筏で遊んだことも、当時の楽しい思い出です。

 

そしてその後、復興を目の当たりにして育ちました。このころから建築業界の景気が上向いたと聞いています。大工さんが「子供が将来なりたい職業」の上位だった時代ですね。

1950年

大工見習いとして住み込み

4年生の時に抱いた「将来は大工さんがいいな」という思いのまま成長した私は、周りから「クロンボ」と呼ばれるくらい遊びまわっていました。水泳が得意でしたが貯木場に落ちて焦ったことがあります。

 

4人兄弟の中で唯一私だけが行かせてもらった高校を出た後、当時兄のいた群馬県桐生市で働くよう親に言われ、建築会社で住み込みの大工見習いとして働きました。親元を離れたのはこの一度だけです。しかし、働き始めて半年、これから頑張ろうとした矢先、左手の中指と薬指を第3関節から落とす怪我をしました。自分が志した道、こんなことくらいでへこたれるものかと思い、親には告げずに踏ん張りました。

 

その時に労災保険で頂いたのが12万円でした。親から頂いた身体に傷をつけたことを申し訳なく思い6万円を家に送り、残りのお金で運転免許を取得しました。
怪我をしたのは冬。当時は洗濯板を使って洗濯をしていたので、傷跡がかなりしびれた覚えがあります。でも、そのことを辛いと思ったことはありません。困ったのは、子供のいない酒乱の親方が酔っ払っては部屋に来たこと。でも、「お詫びに…」と草履と足袋を貰ったりして、今となってはいい思い出です。

1950年

会社が倒産、社長が消息不明に

その頃、10日程工場の片づけ仕事をやらされたことがありました。その時、社長に親方の前で「この子は掃除が上手いから良い大工さんになるぞ」と褒められた言葉は今も忘れられません。とても嬉しかったし、その言葉にいつも励まされました。
社長夫妻には、食事や風呂など本当に良くしてもらいました。当時30代前半の社長は雲の上の人。輝いて見えたし、仕事のセンスも良く、将来の憧れでした。私の原点がそこにあると感じています。

 

帰郷して数年後、会社が倒産。社長は消息不明になってしまいました。
(社長とは34年ぶりに宇都宮で再会できました。「オンリーワンを目指しなさい」と
励まされました)


私が20歳の時に父親が定年でした。息子の目には、父親に老いが感じられ、早く一人前になり生活を支えたいと思いました。

そして、その翌年の1971年に名古屋に帰り、父親が退職金を頭金にして買った住宅供給公社の分譲住宅に住み始めました。

1950年

26歳、職人として独立

26歳の時職人として独立。尾﨑建築として事業主になったのがこの年です。

父親の縁で帝人名古屋工場の修繕の仕事を頂き、請負につながりました。その時は、すぐに出られるようにと枕元に電話機を置いたり、見積書を出すのに恥ずかしくないように何度も何度も書き直したりしたものです。

 

当時、なぜか「自分が親と一緒に暮らすものだ」と思っていました。誰に言われたわけでもなく、「自分がやらねば」、なぜかそれが当たり前に思っていました。

1950年

建設業許可を取得

この年、建設業許可を取得しました。建築会社からも誘われていましたが、性に合わなかったのでしょう。

 

翌年、玄関先を事務所にして(写真)、ご近所の増改築をやらせてもらいました。時期が良かったと思います。そして、何より両親の人柄に感謝しています。

 

1986年に、尾﨑建築からオザキ建設に商号を変更しました。

1950年

バブル崩壊、母が他界

1988年、38歳で結婚。3人の娘に恵まれます。
この直後、バブルが崩壊。

そして1991年、突然母が他界。

ちょうどこの頃に、緑区乗鞍に自宅兼事務所を建設移転しました。現在の自宅のあるところです。(写真)
この建築にあたっての地鎮祭に母も参加してくれていましたが、地鎮祭の後すぐに…。悲しい出来事でした。

 

1992年に不動産業(ランドサポート)を開業。運が良かったのかいきなり大金を得ました。しかし、味をしめることはなかったです。本業はやはり建築だと信じて頑張りました。

1950年

法人設立、家づくりの転機

1993年、緑区平手に工場を建築しました。

そして、翌年1994年に㈱オザキ建設法人を設立しました。職人の親方ではこの先は厳しいと感じて求人。

オザキ建設初の求人広告です。(写真)

 

この頃のあるお客様と出会いが、家づくりの転機になりました。

1995年のことです。

1950年

今までとは違う世界、建築士事務所登録

この頃、ある自己啓発ののセミナーを受けました。当時、独りよがりで目先のことで精いっぱい。どんぶり勘定が当たり前…という状態で過ごしていたのですが、このセミナーを受けて「今までとは違う世界」を知りました。

 

その後、1999年に「住まい考房」として建築士事務所登録をしました。

 

1950年

父が他界

2004年、父が他界。
父は、とにかくじっとしていることのできない人で、根っからの働きものでした。煩わされることなく、わきまえた人でした。そして、工夫することに長けていました。そこは少し譲り受けているかもしれません。また、口の重いところも受け継いでいることかも知れません。
息子の為に、親でなければ到底できないくらい骨身を惜しまず手伝ってくれる…そういう父でした。今日があるのは両親のお陰です。だから、母にはできなかった看病が、父に対してできたことは幸せでした。

1950年

豊明倉庫、オザキ山荘

2005年に豊明倉庫、2006年にオザキ山荘(鈴蘭高原の体感ハウス)を建設しました。

 

真冬-15℃以下にもなる山荘は、極寒の中で建物の性能を体感していただけます。

1950年

平手工場の横に新社屋を建設

2007年に新社屋を建設。持家住宅着工数が当時過去最低の頃でしたが、工務店としての最低限の環境はほぼ整ったわけです。

 

「両親が健在だったら…」「今の自分の頑張りを両親は喜んでくれるだろうか」と思ったものです。

1950年

自宅断熱改修

1993年に新築した我が家。今の家づくりになる前に建てた家で、実は家族から「寒い」と言われていました。そこで、これまで現場で積み上げてきた実績と経験をもとに、思い切った方法で断熱改修工事をしました。おかげ様で、我が家も快適な家になりました。

 

この断熱改修の方法を、今後のオザキ建設の柱の一つとしてご提案していきたいと思っています。

今思うこと

道は一つ

「仕事が趣味なんです」と言うと、寂しい人生のように思われるかも知れませんが、そうでもありません。天職とも思っています。もともと経営を目指していたわけではないのが、ずーっと惜しまずやって来て今があります。運にも恵まれました。目標となる社長に出会えたこと、仕事を覚えることができたこと、独立して仕事に恵まれたこと。感謝して止みません。

発見還元

兄の為に土地の購入を一度見送ったことがありましたが、その後に縁あって徳重に構えることができました。これこそ運を感じる出来事です。

「これほどは必要ない」と思って作った事務所が、手狭になってしまいました。

万物生成

「バブルで買った工場」「売れた古い家」「持つはめになった倉庫」
いろんなことがありましたが、運に恵まれ、全てが一つ一つの積み重ねであるということを実感しています。

 

これまで、やりがいや充実感を求めてやってきました。これからもそれは同じです。「商品を売る」のではない、お客様の家づくりを「一緒になってお手伝いする」ものづくりの姿勢を貫いてきた。家守りとしての工務店でありたい。こういう会社をなくしてはならないと…。狭い範囲でしかないが、この仕事を通じて社会貢献したいと考えています。
「会社を大きくする」とか「売り上げをもっと上げる」とかを求めるのではなく、理念を共有することがそこに繋がると思うのです。
全ての社員が思いを一つにして、一丸となって理念を実践し、社会から求められる会社になることが一番の目標です。それができれば、後のことは自然とそうなってくると信じています。


今の路線で良いとは思わないし、変えていかなければならないことも多々あるが、理念は変わりません。

この道一筋、営業が得意であればやり方も変わったかもしれませんが、今、ここにあります。

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